青海波 【岸本コラム・2019年11月】

霜月

清々しい候、気持ち良い日々です。

☆廬山寺(ろざんじ)

京都御所近くの、廬山寺さんに出かけました。10月19日(土)午前中。所用があって京都市内に出たのですが、2時間ほど空き時間が。今年は暖かく、未だ咲き続けている桔梗(ききょう)の花、時期的にそろそろおしまいと、さようならを告げに立ち寄りました。白砂,苔の庭に佇む桔梗の花、こちらの源氏庭は、すきっとスタイリッシュです。

桔梗 画像

 

御寺に着いたとき、いきなりの驟雨。いっときの夢のような水煙り。その御蔭でしょうか、30分近く、一人源氏庭を満喫していました。一人座するとき、御香の香りが芳しく漂ってきて、純化して貰ったような心の軽さでした。淀みのない流れのときでした。

御庭に魅入った後、「明智光秀の念持仏と廬山寺展」を拝見しました。念持仏(ねんじぶつ)とは、身近に置いて、日ごろの信仰・礼拝の対象とする仏象のことだそうで、今回は、三体の立派な設えでした。中央の守護念持仏は高さ17センチで、顔の彫りは光秀が撫で続けたため薄くなっているそうです。この念持仏だけ、取り外せるようになっていました。

 

 

更に、正親町天皇の手紙「正親町天皇宸翰女房奉書」↑も見られました。正親町天皇から明智光秀への手紙。1571年の信長の[比叡山焼き討ち]のとき、元々比叡山と縁のあった廬山寺ですけれど、「廬山寺は今はもう比叡山とは関係が無い、どうか、焼かないように。」という内容でした。これによって、光秀は廬山寺を焼くことなく済み、廬山寺と良縁が出来ました。それからというもの、光秀は戦いのとき以外は念持仏を廬山寺に預けるようになったということです。何故、本能寺で信長を討ったときに持参しなかったんだろう?と思いながら、拝見していました。光秀が何故信長を討ったのか?!については、近年あらためて諸説紛々でたいへん興味深いものです。ここのところ、何冊か読み進んでいます。

今回「明智光秀の念持仏と廬山寺展」を記念した、特別な御朱印を戴きました。

 

 

この御朱印の桔梗紋が気に入りました。(もう何年も桔梗惚れ(^^ゞ。)そして、そう言えば、光秀の家紋の桔梗紋が、水色桔梗だったと思い起こしました。

本能寺の変のとき、森蘭丸が「(敵の)旗印は水色桔梗、明智日向守光秀殿御謀反・・・!」に応じて信長が、「是非に及ばず・・・」と言い放つシーン、ドラマや映画で何度も見てきました。黒一色の家紋が殆どだったと思われる時代、水色の家紋はとても目立ったことでしょう。そもそも土岐氏に繋がる明智氏の水色桔梗は、二種類あったようです。それにしても、洒落ていて粋だなぁと感じます。

 

 

ちなみに、Wikipediaで「桔梗」をみますと、桔梗が、いろんな[市の花]になっていました。龍ケ崎市 伊勢原市 塩尻市 一宮市 掛川市 多治見市 土岐市 名張市 鎌ケ谷市 山県市。

廬山寺には、何度か伺っていて、この青海波にも何度か記しています。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/

もともと、紫式部が源氏物語を記した御屋敷があった場所。京都御所近くの、いい風の場。源氏物語、非常に精緻細やかな男女の綾を書き表した愛の物語ですが、紫式部の詠んだ短歌「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな」から、みましても、とても美的・内省的な女御でいらしたのだろうと想われます。もしも、タイムトラベル出来ましたら、是非色々とお話ししたいなあと想う方の一人です。

10月19日の廬山寺、もう竜胆(りんどう)の花が咲き始めていました。「桔梗と竜胆が共に咲くとは・・・」と、少しお話しさせて戴いた副御住職が詠嘆なさっていました。

 

 

先月号以降に撮った、桔梗の写真です。

 

 

そして、花がすべて消え去った、今期の桔梗はおしまい・・、と思われた11月10日(日)、膨らみ始めている最後の蕾を一つ、見つけました。朝夕とよく冷え込むようになって来た今日この頃、果たして、大きく膨らんで咲いてくれるのでしょうか?! 咲いてくれたら、嬉しいのですが・・・。写真中↓、蕾が何処にあるか、お判りでしょうか?

 

 

 

☆実 紅い実,緑の実,紫の実

 

(冬青[ソヨゴ] 好きな常緑樹。)

(緑~ヤブラン この後、黒紫色になります。

   紫~コムラサキ ムラサキシキブとも。  )

 

☆今咲く花 今、石蕗(ツワブキ)や玉簾(タマスダレ)の花が、元気元気!です。

石蕗(ツワブキ)

玉簾(タマスダレ)

岸本仁一

岸本仁一