青海波 年の瀬から新年へ 【Instagram 2017. 1】

2017.1.15

日誌
JK

青海波 年の瀬から新年へ 【Instagram 2017. 1】

(ガーデンシクラメン)

1. 水仙(すいせん) 

ここのところ、淡路島や福井の越前岬等から、水仙便りが聞こえて来ます。一面に広がる日本水仙の眺めと香りは、魅惑的。京都南部の拙宅でも、数株の日本水仙が、去年の12月半ば頃から次々と咲き続けてくれています。可憐さと凛々しさ、両方の風情を兼ね備える優しい芳香の花。6~11月に咲く桔梗の花同様、かなり好きな花。学名「ナルシサス」は、ギリシャ神話の美少年の名前、泉に映る自分の姿に恋をして見つめ続けている内

に、1本の水仙の花になってしまったとか。”ナルシスト”の名はここに由来するそうです。原産地は主にスペイン、ポルトガルを中心とする地中海沿岸地域、アフリカ北部まで広がり、原種は30種類ほど知られています。日本には、室町時代以前に中国を経由して渡来したようです。室町時代の漢和辞典「下学衆」に「雪中花」などの名前で載っていてるので、それ以前に入ってきたと推測されています。楚々とした佇まいですが、じつは全草有毒の有毒植物で、鱗茎に特に毒成分多。スイセンの致死量は10g。食中毒症状と接触性皮膚炎症状を起こす。中毒は初期に強い嘔吐があり摂取物の大半が吐き出されるため症状が重篤に到ることは稀ですが、鱗茎を浅葱(あさつき)と間違えて食べ死亡した例があるそうです。葉がニラととてもよく似ていて、ニラと間違えて食べ中毒症状を起こすという事件がときどき報告・報道されています。「綺麗な花には毒がある。」ということでしょうか。重々、注意しなくては!と思います。

2.彦根城 (滋賀県彦根市) http://www.hikoneshi.com/jp/castle/

去年の大晦日に訪ねました。天守が出来たのは慶長12年(1607)。現在、天守が残るのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。内、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝で、他は重要文化財です。

天守閣前広場の大きな「かなめもち」の樹が、紅い実をいっぱい付けて元気!でした。この広場に、あの![ひこにゃん]が登場でした。ふなっしーとは違って、ただ、ひたすら静かにポージング。可愛らしく?ピンクの造花を持つポーズ等もありました。[ 「着ぐるみ」、商標法の商品区分・類似群は?と、調べてみました。第25類(24A03)「仮装用衣服」の「ぬいぐるみ衣装」でした。]明治維新による廃藩置県によって、彦根城も解体の危機にみまわれたそうです。にも拘わらず、今も往時の面影がしっかり残るのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、「保存するように。」とお命じになったからということです。

(天守から琵琶湖が眺められます。)江戸時代を通して、彦根は、井伊家が治め続けました。井伊家からは、安政の大獄,桜田門外の変などでよく知られる井伊直弼(いいなおすけ)他、計4人の当主が江戸幕府の大老に就いています。井伊家は、元々、遠江(とうとうみ)井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市)の武家の家柄。2017年のNHKの大河ドラマの主人公、井伊直虎は井伊家第二十二代直盛の一人娘です。

遠江の井伊家が、彦根城の藩主となったのは?等々、色んな興味が湧きましたので、少し調べてみました。以下、長文になってしまいましたが、宜しかったらお付き合い下さい。

井伊家は、旧く鎌倉時代から続く家柄で、戦国時代には今川氏の支配下にありました。NHKドラマでは、「笑点」司会者春風亭昇太さんが今川義元を静熱演しています。

直盛には男子がいなかったので、叔父の直満の長男の直親を、一人娘の許嫁にしようとします。このアイデア主は、直盛の祖父の弟~大叔父で、井伊家の菩提寺の龍潭寺(りゅうたんじ)の住職であった南渓和尚という御仁です。彼は謂わば、井伊家の知恵袋、折々に妙案を編み出しては井伊家を救いました。

ところが、直満と不和であった井伊家家老の小野政直は、直親が井伊家の跡取りとなることに反対して、「直満とその弟の直義が、謀反を企てている。」と、今川義元に讒言。義元はそれを信じ、直満とその弟の直義は自刃させられる。天文13年(1544)。直親にも累が及ぶのではと危惧した南渓和尚は、直親を南信州の寺にかくまってもらいます。

その隠遁期間は10年にも及びますが、直親の生死は直盛の一人娘(のちの直虎)にも秘されます。その間、彼女には別の縁談話などもあったようですが、断っています。健気です。そして、直盛の一人娘(のちの直虎)は、龍潭寺で出家を決意します。そのとき、井伊家知恵袋の南渓和尚は、念の為、二度と還俗出来ない尼ではなく、還俗可能な坊主になるように勧め、井伊家の跡取りが代々名乗った「次郎」に、男を示す「法師」を合せて「次郎法師」と名付けました。

隠遁から10年後、永禄三年(1560)に井伊家の滅亡を謀った小野政直が亡くなり、直親は南信州から井伊谷に戻り、僧籍に入った直虎に代わって宗家の養子となります。直親は直盛の一人娘(のちの直虎)とは結ばれず、別の女性と結婚、やがて虎松、後の直政が誕生しました。そんなとき、二十二代直盛が、桶狭間の戦いで戦死。

永禄5(1563)年、亡くなった小野政直の嫡男、井伊家の家老小野政次が、今川義元の嫡男・氏真に「直親が謀反を起こそうと企んでいる」と讒言し、直親殺害。小野が今川に讒言、井伊の滅亡を謀る──同じことが2代続けて起こるとは物凄い因縁です。井伊家の高臣でありながら、二代にわたって親今川家で、井伊家を讒言で陥れた小野家、京都の小野家(小野小町・小野妹子に繋がるとか。)の庶流といわれます。家格としては、井伊家よりもずっと名門であったことが、その裏切りの原因なのかもしれません。

いずれにしても、虎松はまだ3歳。翌年には直虎の曾祖父直平も病死、そうして井伊家の跡取りはいなくなってしまいます。

致し方なく、僧として出家していた直盛の一人娘が虎松の後見人となり、井伊直虎(大河ドラマの主人公)を名乗り、井伊家の家督を継ぎます。直虎の名は歴代当主としては記されていませんが、幾多の苦難を超え、天正3(1575)年15歳になった虎松を、浜松城主の徳川家康の小姓として仕えさせることが出来ました。

そして、直虎は、天正十年(1582)47歳で亡くなります。本能寺の変の3ケ月後。(龍潭寺には、井伊家代々のお墓があるそうですが、直親の隣に直虎のお墓があるそうです。許嫁でありながら結ばれなかった二人、亡くなってから結ばれたのかもしれません。)

その後、虎松は直政(井伊家二十四代当主 彦根藩初代藩主)となり、大活躍します。直政は多くの功績をあげ「徳川四天王」筆頭と称されるようになり、徳川幕府の基礎づくりに大きな貢献をしました。関ヶ原の戦いで勝利した家康は「天下を争う大戦度々先鋒として勝利を得ること誠に開国の元勲なり」と、直政の活躍を讃えました。

直政は、軍事上は徳川の主要な一部隊を率いる侍大将であるとともに、諸大名との政治交渉では家康の片腕ともいえる存在でした。

そして、直政は、慶長6年(1601)関ヶ原で敗れた石田三成の居城・佐和山城(琵琶湖畔)を与えられ、上野の国高崎城から移りました。佐和山城周辺は、古代東山道(江戸時代の中山道)と北陸道(同じく北国街道)が分岐する要衝の地で、琵琶湖水運の拠点でした。翌年、慶長7年(1602)2月1日、関ヶ原の戦いの際の鉄砲傷が遠因となって、佐和山城にて死去します。

慶長8年(1603)、直政の子の直継が、彦根城築城に着手。工事第一期で天守閣が完成したのが慶長12年(1607)、大坂夏の陣以後の工事第二期で、城下町などが完成したのが元和8年(1622)年のようです。彦根に築かれた堅固な城郭は、徳川方最大の兵粮米を備蓄する軍事拠点であり、井伊家の軍勢は畿内・西国諸勢力への押さえの要の役割を担っていました。すなわち、彦根城は戦闘用の城でした。後述しますが、戦闘用の城であるため、天守の階段がとても急です。

なお、井伊家の部隊は、当主から家臣にいたるまで、甲冑や旗指物など武器類を朱色で統一したことから、「井伊の赤備え」と称されました。この部隊が成立したのは、天正10年(1582)、直政(井伊家二十四代当主 彦根藩初代藩主 直虎が後見。)の頃です。「赤備え」は、初め、武田氏のものがよく知られますが、その流れで、井伊氏,真田氏の「赤備え」も、夫々良く知られるところです。当時の赤色は高級な顔料の辰砂(しんしゃ)で出され、戦場でも特に目立ったため、「赤備え」の武士団は武勇に秀でた武将が率いる精鋭部隊であることが多く、武勇の誉れの象徴でした。

 (井伊の赤備え)

ちなみに、2017年春から、「国宝・彦根城築城410年祭」が始まるそうです。http://hikone-410th.com/
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」とも相俟って、彦根ブームが起こるかも。静かな彦根城をじっくりと味わえるのは、今のうちかもしれません。(井伊家関連の歴史は、諸説紛々しています。上記は、その一説とお考え下さい。) ちなみに、「松居」姓の方には彦根出身の方が多いと聞きました。「井伊」のお殿様に敬意を表し、「井」の字を使わず「居」に替えなさったとか。

☆御堀 しっとり味わい深いものでした。時が静かに流れていました。

☆天守の階段

こちら彦根城(1607年)も、後述の福井県坂井市の丸岡城(1576年)も、戦闘用のお城。そんな戦闘用のお城の天守の階段は、実に急峻で、段板の間隔も広いです。

戦時攻められたときに、守り防ぎ易いよう~攻め手が登り難いように、だそうです。下の写真左の彦根城の階段も相当急でしたが、右写真の丸岡城の階段は、さらにその上をいっていて、補助用のロープが設えられています。高齢者の方や幼児は、御無理無いよう要注意です。女性の方は、スカートを控えなさるのが賢明。尚、降りるときは、登るときと同じように、階段の方を向いたままの姿で降りるのが安全と感じました。


(彦 根 城)         (丸 岡 城)

3.丸岡城(福井県坂井市) http://kanko-sakai.com/110_special/maruokajo.php

年明け一月二日に伺いました。戦国武将(織田信長家臣)として知られる柴田勝家の甥の柴田勝豊が天正4年(1576)築城の平山城。現存する天守は、日本最古と言われています。昭和9年(1934)に国宝に指定されましたが、昭和23年(1948)の福井震災で倒壊。昭和25年(1950)に重要文化財と変更されました。昭和30年(1955)に再建。なお、勇猛果敢で知られる本多作左衛門重次(徳川家康家臣)が戦地から家族に送った手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」で知られる[お仙]が、その長子・丸岡藩初代藩主の本多成重と今回初めて知りました。そして、平成五年(1993)から、「一筆啓上賞」という手書きの短い手紙コンクールが催されていて、かなり活況だそうです。

 (紫幕は、お正月飾り。)

天守の屋根ですが、笏谷石(しゃくだに石 福井産の緑色凝灰岩)を加工した石の瓦で葺かれています。渋いです。天守にかかる総重量は、ゆうに100tを超えるそうですが、天守が雪国の強い風雨や寒さに耐えられたのは、この石瓦の御蔭と言われています。

また、こちらの天守は、二重三階の望楼型というそうで、古い天守に見られる高欄付きの廻縁を備えています。ただ、実際に歩くことは禁止されています。


お正月だからでしょうか、小ぶりではありますが、実によい雰囲気の古城ですのに、訪れる人々は数えられるほどでした。お堀等も今はもうありませんが、この天守の存在感はとても濃く確かです。お勧めしたいお城です。


(古風な、石落とし)

 

4.白(しら)鬚(ひげ)神社 http://shirahigejinja.com/

年明け三日の夜7時頃に伺いました。ひと気はありませんでしたが、ライトアップされていました。滋賀県高島市の神社で、湖中鳥居(琵琶湖畔から58m)があります。全国の白鬚神社の総本社と言われます。いつ創建されたのか諸説ありますが、1900年ほど前、第11代天皇・垂仁天皇の頃だとも。

現存の本殿は、秀吉の遺命を受けた秀頼の寄進を受け、慶長8年(1603年)に建立、檜皮葺きで入母屋造りの桃山時代特有の建築様式を今に受け継いでいます。豊臣秀吉の遺命を受けて秀頼が再建したものは他に、北野天満宮や方広寺などがあり、京都でも重要な社寺が多いそうです。こちらの白鬚神社も、それらと並ぶほどに、大切にされていたのでしょう。


湖上の鳥居は、土日は日没から約2時間ライトアップされています。大晦日やお正月などは、特別に夜間もお詣り出来ます。

以上

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